2010年3月12日 (金)

「書く」ショーバイの翻訳者だが……

翻訳者というのは、基本的には「自分ひとり」だけで仕事をする職業である。エージェント内部にいても、会議や打ち合わせが入っていないと、コーディネータと連絡事項を伝え合うくらいのもので、ほとんど会話をせずに1日が終わることもある。フリーランスとなればなおさらだろう。興が乗れば乗るほど、視野が狭くなり集中して自分の世界に入っていく。「書く」仕事というのはそういうことだ。

それでも、いや、だからこそか、翻訳者同士の交流というのは、フリーランスが多い他の業種と比べても盛んだと思う。特に、昔あったNiftyの翻訳フォーラムというのは質の高いオンラインコミュニティだった。規模はさほど大きいわけではなかったはずだが、情報や意見交換の内容が非常に充実していた。その理由のひとつが、おそらく「翻訳者にとっては、『書くことは呼吸すること』だからなのではないか」と言う方がいたし、わたしもその通りだと思う。

書くことが日常と一体化しているため、「自分の頭や心の中を文字にして表し、それを発表する」ことに、あまり抵抗がない。だから昔の翻訳フォーラムのチャット(Real Time会議と言っていましたね)は、それはそれは賑わっていた。タイピングも恐ろしく速い人ばかり、反応も瞬間的なので、テキストが流れていくスピードは凄まじいほどだったのを覚えている。

無論、チャットばかりでなく、ロジカルな構成で適度な長さの原稿を書くのも翻訳者は一般的に得意である。翻訳会社や英語関連の会社等のwebサイトで(同業者に役立つ内容の)ブログを書いたり、メールマガジンの原稿を担当している翻訳者というのは、実際にたくさんいる。ちょっと思いつくだけでも井口耕二さん、山本ゆうじさん、近藤哲史さん、河野弘毅さん等々、かなりの数に上る。そのほかに、自分自身のブログでいろいろと同業者への情報を発信している方となると、これはもう数え切れないくらいの数である。言葉で表現するのが割合面倒なことであっても、それをなんとか解きほぐして、第三者も読んで理解できる内容に持っていく。一見本業とはあまり関係なさそうに見える作業だが、「読んで、解釈して、調べて、書くショーバイ」である翻訳者には、こういうことが得意な人が多い。

書くことが呼吸のように自然であるというのは、もちろんわたし自身にも言える。社会に出て以来、職種はいくつか経験したが一貫して「書き」のスキルで生計を立ててきたので、書くということに対するハードルは限りなく低い。

けれども、やはり物事には表もあれば裏もある。元々話すことがあまり得意ではなかったところへ、「書く」スキルだけが発達したとなると、なるべくならば公私どのようなことでもメールで済ませる傾向が高くなってくる。書くことならばいくらでもできるし、話すのはおっくうだ。特に連絡を取る相手が同じ性癖を持っていたら、ちょっとした連絡や用事もメールで送るのは当然の成り行き。

こうなると、どうしてもコミュニケーションエラーが発生しやすくなってくる。皮肉なことに、エラーを恐れて感情を入れないようにと細心の注意を払って書いたときほど、「そう取られるとは思わなかった」結果になってしまう。なんでそう曲解するかなぁ……とため息をつきながら、「今度こそは誤解されないように!」と十二分に気を配り、説明を長くしたりこれ以上なく冷静に書いてみても、やっぱり相手や自分の機嫌を損ねてしまう事態となる。

というわけでさんざん痛い目を見てきたわたしだが、今年に入ってひとつだけ決心をした。それは「なるべく対面で話そう」ということ。公私どちらの用件であっても、ちょっとしたことでもメール1本で済ませないようにする。なるべくならば相手のところまで出向いていって話す。

こうすることで、確かにコミュニケーションエラーは減ってきたと思う。ああ、もっと早く気づくべきだった。メールは諸刃の剣なのだ。自分には筆力がそこそこあると思い込んでいると、その鋭さはいや増す。自信があっても、いや、だからこそ、特に1対1コミュニケーションのときにはむやみに振りかざすものではない。

読み書き聞き話す……。4技能をバランス良く伸ばす必要があるのは、何も外国語の学習に限ったことではない。母国語でのトレーニングも、やっぱり大事なのである。コミュニケーション力を高めるなら、ひたすら書くのではなくて「話す(そして聞く)」スキルを養うことも大切。

もちろん、巷には書くことも話すことも得意という翻訳者も数多くいる。例えば、先ほど挙げた井口さんなどがそうで、講演等の機会も多く持たれている。どんなに忙しくても、プライベートで何が起こっていても、常に穏やかで適切な電話応対をする翻訳者の方も直接存じ上げている。元は翻訳者、現在はFPとして人前で話すことも仕事の大きな部分を占めるという友達もいる。こうなると「ほとんどの翻訳者にとって書くことは得意であり、だからといって話すスキルが低いわけではない」ということだ。書くことがショーバイなんだから、話すことは苦手でもいいでしょ、という言い訳は通らないことになる。本当に、ただただ頭を垂れるばかりなのだ。そんなことを今さら悟った三寒四温の季節である。

Photo 「みちのくの母のいのちを一目見ん一目見んとぞただにいそげる」教科書にも載っている有名な斎藤茂吉の歌です。茂吉と言っても、その昔文学史でアララギ派を覚えさせられたくらいの知識しかないわたしですが、このレリーフを発見したときは、あの「死に近き」の詠み人が本当に存在したのだ、しかもこの地で……と、とても身近な存在に思えました。

「新宿の大京町と いふとほり わが足よわり 住みつかむとす」足どころかすでに半身が麻痺していた茂吉は、記されているとおり空襲でそれまでの自宅を喪った後にここに住まいを定め、お供を連れて御苑を散歩したそうです。このレリーフは茂吉の長男、斎藤茂太が平成の時代になってから掲げたものですが、そのモタさんも没して3年が経ちました。次男の北杜夫にはまだまだ活躍していただきたいものです。

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2009年12月28日 (月)

今年の漢字、「本」

日本漢字能力検定協会が発表した今年の漢字は「新」。わたしは「民(第7位でしたね)」に一票入れていたが、ダントツの票数を集めたのは「新」だった。決まってみればさもありなん。確かに確かに、と納得した方も多かったのではないか。

さて、わたしは年頭に、自分の今年の漢字として「本」を挙げていた。「本気で物事に取り組み、本音で話し、本心を貫き……」ちょっとカッコよく語呂を合わせるとこんなところになるが、実際にはなんてことない、「本をたくさん読む」という小学生の夏休みのような目標だったわけである。

今年の最大の出来事として、会社の移転があった。7年間お世話になった下町、門仲の地を離れて華やかな職住混在の街、四谷へ。ここに来て何よりも嬉しかったのが、近所にそこそこの規模の書店があること。昼休みにちょっと本屋に寄れる……というだけで、引越し後のなんとなく心細かった気持ちが、どんどん安心できるようになってきた。何でもかんでもamazonに頼らずとも、いつでもリアル本屋に本を見にいけるということが、これほど心を強くしてくれるということを初めて知った。

さて、そんなわけで「本を読む」である。英語の多読を始めた今年だが、100万語にはまだ到達できていない。それなりに面白いプロジェクトではあったし実りも得たのだが、このネタは以前書いたので今回は割愛させていただく。

では日本語の本はどうだったのか……。「本を100冊読む」のが毎年の目標で、無論、毎年達成しているという翻訳者の友人がいる。今年、自分は量こそ120冊くらいはいったものの、印象に残る本がどれだけあったかというとちょっと疑問が湧く。

それでも、バランスシートも読めないのはいくらなんでもまずいと思い、会計の本に20冊ばかりざーっと目を通してみた。特にベストセラーになった山田真哉氏の『さおだけ屋はなぜ潰れないのか? 身近な疑問からはじめる会計学 』や『食い逃げされてもバイトは雇うな 禁じられた数字 』、『女子大生会計士の事件簿 』シリーズなどは、数式も出てこないので「勉強」の感覚なく読めて非常に興味深かった。未読の方にはぜひオススメしたい。6桁以上の数字になると、いちいち「いち、じゅう、ひゃく、せん、まん、じゅうまん……」と右からゼロを数えていくわたしが読めた本なのだから、どんなに数字が苦手でも読める。間違いない。そしてこれをベースに、「数字の出てくる」会計解説本(新書でずらーーーーっとある)を読んでいけば良いのだ。

こんな感じで、やはり勉強の基「本」は「本」にある。自分の1年は「本」の年だったと確認した。

このほか、ビジネス分野で「読んでよかった」本を2冊紹介したい。まずは梶原しげる著『すべらない敬語』。学者ではなく、しゃべりのプロであるアナウンサーの書いた敬語の本だが、日ごろの疑問が次から次へと氷解した。文化審議会の「敬語の指針」において「とんでもございません」が容認されているのはどういう根拠に基づくものか。本来は上から下へ使う語であった「お疲れさまです」は現在、上司に対して言えるのかそうでないのか。「方々」は敬語だけれど、「被災者の方々」「○○病(公害病など)患者の方々」という言い方には「自分たちはそうでない」という尊大さが現れていないか。政治家がよく使う「お詫びしたいと思います」「お騒がせしました」「ご迷惑をおかけして遺憾です」が、視聴者の逆鱗に触れるのはなぜなのか。タレントやアナウンサーの敬語についても名前を挙げて分析していて、とても面白い本だった。日常会話、およびテレビやラジオで話される敬語についてなんとなく思っていたことが、「ああ、こういうことなんだ」と理由がわかったり、得心がいった一冊だった。

もうひとつ、池上彰著『わかりやすく<伝える>技術 』を挙げておこう。大人が見ても役に立つニュース解説番組、NHK「週刊こどもニュース」の初代「お父さん」を務めた池上氏の最新作である。この番組はここ数年わたしも見ているが、この解説で初めてわかったことばかりである。中でも、模型を使って説明するコーナーはいつ見ても感心することしきり。グラフや図の使い方もかなり工夫して、「ぱっと見てわかりやすく」してある。そういった番組のヒミツをこの本で解説してくれているので、「ああ、あのフリップにはこういう意味があったんだ」とうなずける。方向音痴のわたしが、子どもニュースに登場する地図ならば(普通のと変わらないように見えるのに)一目で当該地点がわかるのだが、それには「こういう仕掛けがあったんだ」と「舞台裏」の一端が明かされてとても面白い。これだけでもう、こどもニュースの視聴者ならば「読んだ甲斐のある」1冊となる。

この原稿を書くためにもう1度読み返してみたのだが、「わかりやすく」するためのテクニックよりも何よりも、常に相手の視線で考えること、相手に対して「こんなことも知らないの」と思ったらそこでおしまいなのだということ。そういった姿勢、つまりコミュニケーションの基本が説教調でなく、嫌味なく(ここがすごいところである!)述べられている。池上氏のことは「こどもニュースの人(=キャスター)」としか思ったことがなかったのだが、文筆家でもあったと初めて気づいた。早速、氏の著書をいくつか図書館で借りてきたわたしなのであった。

最後に、娯楽というか趣味の本も1冊。水族館フリークのわたしにとって今年のお宝の書は、『The水族館』。小規模ながらとても神秘的な新江ノ島水族館、最前列でショーを観覧し、イルカがジャンプするたびに水槽の水を文字通り頭からかぶるのが醍醐味の品川エプソンアクアスタジアム、遮る物の何もない大水槽の真上からマンボウにエサをやれる(高所恐怖症のわたしにとってはかなり恐怖を覚えた瞬間であった)アクアワールド・大洗、特徴的な三角形の潮目の水槽に天日が降り注ぎ、光を浴びてきらきら光るイワシの大群が絵本の「スイミー」を思い起こさせるアクアマリンふくしま、なんでもありのデパート水族館なだけでなく、感動するほど大きいマンボウがいるマリンピア松島……。そろそろひんしゅくを買っているだろうからこの辺にしておくが、行ったことのある水族館について「そうだった、ああだった。そしてあの水槽の裏側はこうなっているんだ!」と何度も反芻できる。

それだけではない。イワシのクリスマスツリー・イリュージョンという訴求度抜群のアトラクションを持つ八景島シーパラダイスや、水族館フリークならずとも「死ぬまでに1度は見る価値がある」美ら海水族館、チューブを上ってくるアザラシやペンギンのお散歩で有名になった旭山動物園。残念ながら、フリークと名乗る割りにはわたしはこれらの有名水族館に行ったことがない。けれども、この本でまさに疑似体験ができる。いつか行く機会があったらここもあそこも見よう!と、何年、あるいは何十年後を楽しみにしながら待っていられるというわけだ。落ち込むことがあった日など、寝る前にちょこっと開いて「そうだ~来年はあの水族館に行こう」と勝手に決めれば精神衛生も回復という、ヒーリング効果も満点の本なのである。

最後に個人のシュミでヲタク話をしてしまったが、こういう1冊に出会えると「本が好きでよかった!」と今さらのように思える。今年も「本運」はばっちりだった! と満足して1年を終われるというものだ。

さて、年末のブログということでひとことご挨拶を。8月からスタートしたこのブログ、毎日毎日ネタを探しているうちにあっと言う間に4カ月間経ってしまいました。自分の筆力がどこまで向上したのか不明ではありますが、ちょっとした流行作家の気分を味わわせていただき、編集の方と読者の皆様にはただただ頭を下げるばかりであります。読んでいただいて、本当にありがとうございました。それでは皆様、良いお年をお迎えくださいませ。

Photo 年末年始は火の用心ということで、やや無理のあるこじつけですが、今回は四谷三丁目にある消防博物館の消防ヘリコプターを題材としました。屋上にももう1基あり、運転席に座って写真を撮ることもできます。小さいお子さんがいる方には特にオススメです。さらにこの博物館は展示も非常に充実しており、夏休みなどは自由研究向けの特別展示もやっています。入館無料で座るところもあるので、寒いとき、暑いとき、雨が降ってきたときにちょっと休憩するにも最適。四谷の要チェックスポットです!!

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2009年12月18日 (金)

Do We Have a Word for That?

“So, how do you say yoroshiku onegaishimasu in English?”

That was the surprisingly tricky question I was abruptly asked a few months back by one of those nice older gentlemen here in Tokyo who work at a bicycle parking lot.

This particular fellow was interested in English and knew that I was a translator – or I think he knew, because even after I told him of my job he has continued to call me sensei.

Well, he must not have thought much of my abilities as a translator, because that unexpected question of his gave me some pause for thought. The “pause” long enough that the person waiting behind me began to clear her throat. After a good ten seconds or so, I only managed to tell him that a simple “please” might often work, although it depends on the exact context.

Thankfully the man didn’t follow up that question with a query about the best way to say ganbatte – to name another frequently used Japanese word that somehow slips between the cracks in English.

Speaking of ganbaru, I first came across the (supposed) English equivalent of that word when I was teaching English at a junior high school in the inaka (another great word!). One day I saw a giant banner that had been unfurled in the school’s gym, bearing the simple slogan: FIGHT! It seemed a bit odd, I thought, for a school to be so openly encouraging acts of violence.

For me, the word “fight” is closely associated with those occasional playground brawls that would break out at school, where classmates would quickly encircle the two combatants and joyously yell “Fight! Fight!” in the hope of escalating the incident.

“Fight!” – or I should say: Figh-to! – is not the only way ganbaru is typically dealt with. There is also that “do one’s best” translation. It is just as well, though, that the junior high school had not gone with that option, as a crowd cheering “Do Your Best! Do Your Best!” – however enthusiastically – is not likely to rally the home team to victory.

My main point, I suppose, is that there is not always a one-to-one relationship between words in different languages; and if a translator insists on finding a single word in such cases, problems (or hilarity) may ensue. Sometimes it is better to be a bit wordy and understandable, than concise and confusing. 

The lack of a one-to-one relationship between words in different languages, however, is taken by some as the grounds for arguing that a non-native speaker will never be able to grasp the subtle nuances of a given language.

Now, it is true that that any language (even the supposedly “simple and unambiguous” English language) is complex and full of subtlety. But the fact that the same word does not exist in one’s own language hardly prevents a person from grasping the conceptual meaning of the foreign word (although in many cases it helps to be familiar with certain social or cultural factors to fully understand that meaning).   

The meaning of ganbaru, for instance, can be easily explained to a person who does not speak Japanese – although telling someone that it means “fight” or “do your best” is unlikely to convey that meaning. In short, the concept behind a foreign word can be readily understood even if that particular word does not exist in one’s own language.

The fact that an English speaker might borrow joie de vivre or raison d’etre from the French language – rather than directly translating into English – should not suggest that England was a land inhabited by miserably depressed people who saw no point to life before they first encountered those two foreign words. (The inhabitants of Liverpool, for instance, have been known to have as much joie de vivre as people anywhere – at least during those two-and-a-half weeks of summer they are allotted each year!)   

And – let’s be honest – people throughout the world have been known to “derive pleasure from the misfortunes of others” before ever encountering that delightful German word Schadenfreude, which means just that. 

So, what are the pittari words in English – the ones that lose some of their snap in translation?

To be honest, I’m not sure if a native speaker is the best judge of what English words could fill a lexical gap in some another language. I suspect that our powerful “four-letter words” are the envy of some nations, but even those can often find equally vulgar equivalents in other languages.   

Image001Perhaps Japanese readers of this blog know of some English words they simply can’t live without.

And translators from English no doubt encounter words that are hard to find the right equivalent in Japanese. When that happens, be sure to “do your best” and “fight!”

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2009年12月 4日 (金)

ヘイ・ジュードに思う

英語の学習に歌を使ったことがある、という方も多いことだろう。

わたしは洋楽に夢中になった経験がないので、歌で英語を覚えたという記憶はあまりない。しかし、中学校の頃に熱心な先生がいらして、確か中2か中3の授業は毎回歌で始まった。YesterdayやHonesty、Where have all the flowers gone?などを歌ったことを覚えている。

時代は下って現在。わたしの中2の娘も、学校の英語の授業で歌が取り入れられているらしい。Honesty、Top of the World、Let it Be、Over the Rainbowなどを歌っているようだ。最初にその話を聞いたとき、「30年前と同じような曲を使うんだ!(先生も、もっと新しい歌にすればいいのに……)」と驚いたものだが、英語を始めて1年ちょっとの中2生がついてこられる歌となると、どうしても限られるということか。

その娘が、こないだはHey Judeを歌ったと言う。「ふうん……。えーと、こんなんだっけ?」と、記憶の底から掘り起こしてみるとちゃんと口から出てくる。わたしはビートルズをちゃんと聴いたことも覚えたこともないので、おそらくこの歌も、中学生のときの先生が取り上げてくださったということだろう。毎時間、小さい身体で旧式の大きくて重たいカセットテープレコーダーを下げて教室に入ってきた先生のおかげで、30年を経て現在こうやって歌うことができるわけだ。学校の先生とは偉大なり。

さて、そのHey Judeについてこんなフローチャートを発見した。
Hey Jude フローチャート

歌詞をチャート化したものだが、これ、見れば見るほどよくできていると思う。こんな単純な構成だったんだ……。今さらながら非常に驚いた。単語も文法も、日本の中学生にも無理なく理解できる範囲内にある(現に、30年前も今も、日本の学校教育に取り入れられているわけだし)。

歌で外国語を学ぼう!と思っても、実は外国語の歌、特に流行歌の歌詞というのは(マンガなどもそうであるが)、ものすごく難しかったりする。ちょっとしたスラング、若者言葉、流行語や省略形などなど。そこで生活している者にとってはなんていうことはないこういったものが、教科書に載っていないフレーズや語句、文として整っている文章しか読めないし聞けないという初学者にとっては、大きな障壁となるのだ。

しかしこのチャートを見てもわかるように、Hey Judeの歌詞には、そういうわかりづらい部分がない。教科書どおりのフレーズしか出てこない。よって、学習者にもとっつきやすい。イコール、英語に堪能じゃなくてもわかりやすく、覚えやすく、口ずさめる。もちろんここで使われている文法も、命令文、現在完了形、不定詞くらいとシンプルなものだ。もうちょっと難易度の高い使役文や受動態も出てくるけれど、それでも1文ずつ。文法的な事項や構文がよくわからなくても、1文くらいならそのまま覚えるのも抵抗が少ない(複数の友人から聞いた話だが、几帳面な性格だと、理屈で納得してからでないと英語が読めないという子も一定の割合で存在するらしい)。

さらに、こうやってチャートとして見るとわかるが、歌詞の文章としての構成も単純明快。チャートの中にクロスしている線がないし、ぽつんと孤立してしまっている部分もない。すっすっと流れるように次に進み、単純に戻ってくるだけ。迷路にもならないくらいの構成である。

難解な数学の問題を解く時に「美しい解法」などと言う人がいる。見た目にも美しく、すっきり明快にわかりやすく数式が並んでいるのだそうな。レベルはあまりに違うが、算数だって「いい解き方」で解いたノートを見ると、「美しいなぁ」とわたしでもわかる。ということは、数学のできる人がヘイ・ジュードのフローチャートを見たら、「美しい……」とため息を漏らすのではないかしらん。それくらい、「図として見て美的」なのがこの歌詞なのだ。見れば見るほど唸るばかりのチャートである。

そしてこのシンプルさが、この曲が世界中で大ヒットした主な要因のひとつとなったのではないかと思う。もちろん、単純であるということは、後年に残る作品となるという点でもプラスに働くのだろう。実際にわたし自身、30年前に習った歌が今でも口をついて出てくるのであるし。洋楽についてはまったく詳しくないわたしだが、このチャートを見てしみじみそう思った。

単純明快で美しい。わたしの文章も、そこを目指している(実際に、内容をじっくり読まなくても美しい文章というのはわかると、わたしは思っている。特に漢字とひらがな、カタカナのバランスが取れているという条件が「見て美しい文章」には必須)のだが、なかなか難しい。まだまだ精進していかなければ。1年中でいちばん忙しいこの時期ですが、仕事の合間に気が向いたら、このページをぜひまた覗きにきてくださいませ。

Tree
当社のビルにもクリスマスツリーが登場しました。イルミネーションやオブジェが大好きなわたしにとってはとても嬉しい企画で、毎日見上げては「今年もあと何日!」とカウントしています。

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2009年11月27日 (金)

松下玲子 プロフィール

1990年青山学院女子短期大学英文学科卒業後、全日本空輸の国際線に3年半乗務。退職後、子供英会話スクール講師、ブライダルコーディネーターなどを経て、1999年翻訳コーディネーターとしてダイナワードに入社。2007年秋から人生の夏休みをいただいたが、2009年春に復活し、営業と営業企画を担当している。10~15歳をマレーシア、クアラ・ルンプール、16~17歳をアメリカ、ロチェスターで過ごした。趣味は海外旅行、映画と海外ドラマ鑑賞。映画、ドラマは制作過程や舞台裏、キャストやスタッフが語るエピソードに非常に興味がある。DVDを観る時は、「特典映像を観てから本編」という順序が基本!(笑)

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ハートで感じる英語

翻訳会社に勤める者として、こんなことを言ったら怒られてしまうかもしれませんが、翻訳はどうも私の性に合いません。翻訳するのではなく、言語をそのまま受け入れて、そのままの音、そのままのリズム、そのままのニュアンスで使いたいと思ってしまうのです。英語には非常に感覚的に接しています。

完璧な翻訳はあり得ないと言われていますが、私にとって言語間の深い溝を埋める作業は修行に近いものがあり、読み書きよりも、ついつい面と向かってのコミュニケーションの方に心魅かれてしまいます。だからこそ私は営業担当なのであって、溝埋めのスペシャリストたちと共に翻訳会社の一翼を担っているのでしょう……。

英語を感覚的にとらえるようになったのは、英語に出会った子供の頃の経験に起因しています。父の駐在で移り住んだ1970年代後半~80年代半ばのマレーシアには、娯楽が少なく、テレビも国営放送のみ。映画好きの両親に連れられ、新作が封切られたといっては映画館に行き、買い物のたびにショッピングモールのレンタルビデオ店に通うことが最高の楽しみでした。もちろん字幕は無いのですが、自分に都合よく解釈していました。それが今思えば「英語のシャワー」になっていたのでしょう。『スーパーマン』『インディ・ジョーンズ』『スターウォーズ』『E.T.』『サウンド・オブ・ミュージック』『ガンジー』『フラッシュダンス』……とにかく片っ端から観たものでした。

通っていた日本人学校にも英会話のクラスがあり、家庭教師にまでついていたのですが、当時はあくまでも英語に親しむことが最大の目的。後に高校でアメリカに留学した時も、文法を全く意識することなく過ごしました。そうやって身につけた英語で、自慢できることではありませんが受験も「感覚」で乗り切ったのです。

しかし、その後縁あってダイナワードに入社。「それは文法的には……」なんて会話が日常的に飛び交う職場です。その中で、コーディネーターとしてかなり深く翻訳チェックに携わるようになった時、今まで向き合うことをスルリスルリとかわしてきた文法が目の前に大きく立ちはだかりました。苦手だと思って長年避けてきた人にバッタリ出くわし、「お久しぶり。元気だった?」と不気味な笑みを浮かべて睨まれたような、そんな気まずさが文法と私の間に漂っていました。

(今回は逃げられないかもしれない。これは観念して乗り越えるしかないか…)という絶望感と、バイリンガルのコーディネーターたちに囲まれ「社内で英語が一番できない自分」というコンプレックスを抱えるつらさで、毎日が苦しくて仕方がありませんでした。

その状況から脱出をはかるべく一から文法を勉強し直そうと、会社帰りひそかに本屋に立ち寄り英文法の本を買いあさったのです。しかし、どの本を読んでも目は文字を追えど一向に頭に入らない。日本語なのにサッパリ頭に入ってこないのです。まるで、私の意識の及ばないところで、脳が文法を拒否しているような感じでした。

そんな状態が軽く半年は続いたでしょうか。ホトホト困り果てていたある日、一冊の本に出会いました。NHK出版の『ハートで感じる英文法』という本です。帯の謳い文句に、私は一瞬にして心を奪われました。

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英文法を「感覚」でマスター!
英文法の近道は、ネイティブスピーカーの感覚を身につけること。
丸暗記ではなく、心で感じることが、英語上達のカギなのです。
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(英文法を「感覚」でマスター?もしかして私にピッタリなのではないか?しかし、そんなことが本当にできるのだろうか…?)この頃には文法本を買うことに相当臆病になっていたので、半信半疑でページを開くと、余りに衝撃的な内容に思わず釘付けになりました。(これはとても立ち読みでは済まない。買う価値ありだろう!)と即決です。

家に帰るまで待ちきれず電車の中で早速読み始めました。
現在完了は「迫ってくる」イメージ、冠詞のtheは「スポットライトが当たっている」イメージ、~ingのイメージは「躍動感」……、文法だけでなく単語についても、英語の持つありとあらゆるイメージが絵で表現され、それにユニークで分かりやすい文章がついています。イメージやニュアンスをつかんで実感すること、それを使いこなせるようになることに重点が置かれているのです。

(一部抜粋)「a. I like playing with my kids in the park. とb. I like to play with my kids in the park. どちらの文も日本語訳してしまえば「公園で遊ぶのが好き」になってしまうでしょう。ですが質感が違います。a.は公園で「よっし、次は滑り台だっ」などその情景を生き生きと思い描いているのに対して、b.にはそんな雰囲気はありません。単に「公園で遊ぶのが好き」、概括的に自分の好みを述べているにすぎないんですよ。 (中略) to不定詞と~ingの違いに神経質になる必要はありません。ただそこに「リアリティ←→漫然」というタッチの違いがあること。~ingはいつでも生き生きなんだということだけはつかんでおいてくださいね」

目からウロコの体験の連続で、ページをめくるたびに「がってん!がってん!」とボタンを押したくなるほど(笑)。それまで抱いていたガチガチな文法へのイメージをも覆す、文法本とは思えないほど面白い本で一気読みしました。NHKらしからぬざっくばらんな文体も手伝ったのか、あれだけ脳が拒否していた文法がどんどん入ってきて「チョー気持ちいい!」のです。

この本には、もう一冊、『ハートで感じる英文法 (会話編)』があります。どちらも今は心の友。英文法と私の気まずい関係を飛躍的に改善させてくれた、私にとっては救世主といっても過言ではない大切な本です。

その後、私の英語力がアップしたかどうかは定かではありませんが、文法コンプレックスは大幅に解消されました。(母語の日本語だって文法を完璧に理解して使っているわけではないんだしね)と、今は肩の力が抜けて楽になった気がします。そして、前よりも英語が好きになったことは間違いありません。英語を「感覚」でとらえるのも悪くないな、と思う今日この頃です。

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クアラ・ルンプールのホテルの窓から眺めた風景。きれいなビーチも良いですが、私は街中で過ごす時間が好きです。とても濃い緑に心がホッと癒されます。

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2009年11月16日 (月)

Irasshaimase!

Last month I was back in the US for a short visit and as usual there were many “cultural differences” that struck me. Perhaps most noticeable was the interaction between store employees and customers.

I mean the sort of chitchat at the check-out counter, where the customer has to prepare not only to pay for the item but also offer some witty repartee when necessary – or at least offer some comment on the weather or yesterday’s baseball game. I must admit that I’ve grown so accustomed to shopping in Japan that it takes me a few days to reaccustom myself to those sorts of conversations.

Of course, when I first came to Japan over 15 years ago, it was the Japanese style that took some getting used to. I vaguely recall sauntering into a shop, just after arriving in my inaka posting for the JET program, and being greeted with a hearty irasshaimase!

That cheerful greeting confronted me with a dilemma: How should I respond? It seemed like it would be rude to just ignore the word altogether, but it wasn’t exactly the same as the sort of casual “Hello” or “May I help you with something?” that I had been used to encountering in the States. My “solution” was to mumble a konnichiwa and go about my shopping.

But it wasn’t long before I realized that very few if any shoppers paid much mind to the irasshaimase. And eventually I learned to resist my urge to recognize the clerks’ vocal efforts with some sort of response.

Yet no sooner than I had adjusted to this cultural norm in Japan, than the word konnichiwa began to replace irasshaimase at some stores – beginning, I think, with Starbucks.

I was quite taken aback when I was first confronted with a konnichiwa in place of the familiar irasshaimase. And this again raised that old dilemma of how to respond, because konnichiwa is without question a greeting.

Yet the way those Starbucks workers said the word, at a rather high volume, was almost identical to the way someone at a vegetable shop would shout out irasshai! So it did not exactly seem like an invitation to begin a pleasant little conversation about the weather. It was, rather, as if someone decided to spice up the old tradition without completely overturning it.

At any rate, this new konnichiwa greeting soon appeared on the lips of baristas at rival coffee-shop chains, even the Japanese owned ones. But this change must have upset certain customers, because not long after, a sort of compromise seemed to have been reached where the irasshaimase returned, but was quickly followed by konnichiwa.

This formed the new irasshaimase-konnichiwa combination that can now be heard everywhere, as my trip to the convenience store downstairs has just confirmed!

This compound-word is a real clunker – like some unwieldy new company name formed from a corporate merger – but somehow it has taken root, perhaps because it has something to satisfy everyone.

The irasshaimase establishes right away, without any room for doubt, that there is absolutely no need for the customer to respond. Thus, having nipped any pointless conversations in the bud, the konnichiwa can safely appear at the tail-end to add that “personal touch.”

Even without the irasshaimase to establish the tone, the intonation of the konnichiwa is so flat that it is pretty clear that the customer need not offer his or her own konnichiwa in return.

I do not mean to suggest, however, that English is not every bit as rich in formulaic expressions. Anyone familiar with the ubiquitous “Have a nice day” send-off at stores in the United States can attest to that.

Yet one difference is that the formulaic comments and questions are often said with the expectation that the customer will offer a response back, however formulaic that might be too. “Have a nice day” would normally merit a “Thanks, you too” or something of the sort. The customer and clerk are also free to improvise a bit, even throw in a joke (however lame it might be).

It is hard to say, I think, which style of in-store interaction is preferable. Granted, the irasshaimase (even with its konnichiwa topping) can be impersonal, yet an obviously insincere, monotone “Have a nice day” can be worse than hearing nothing at all.

On the plus side, a robust irasshaimase can give the customer the impression of being valued yet also having one’s space respected; just as the checkout chatter in the US might lift the spirits of the customer or employee involved.

That irasshaimase, in my opinion, is perfectly fine by itself – without being weighed down by the sidekick konnichiwa. And a sincerely uttered konnichiwa is also wonderful on its own, rather than being irrelevantly added to an irasshaimase.

Irasshai

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2009年10月26日 (月)

「一粒で二度美味しい」英語多読

今年に入ってから、わたしも「英語の多読」を始めてみた。もう何年間も続けている友人も多くて、でも、いくら本代があっても足りない……というのを言い訳に、なかなか自分でもやろう!という気にならなかった。

ところがある日、ふとしたことから友人に『The Magic School Bus』シリーズを数冊借りてみた。

と、この絵本がものすごく面白い。子ども向けの科学入門シリーズだが、海底や宇宙に行ったり人体探検をしたり、日本語の知識としても「知らなかった」ことが綴られていて、次は?次は?とページを繰る手ももどかしく、思いのほかあっという間に読めてしまった。

大抵のことに言えるが、スタートが切れれば、あとは走り続けていけるものである。図書館で英語絵本を片っ端から借りてきてどんどん読んでいく。英語とも翻訳とも直接関係ない仕事をしている友人などは、歯を磨きながらでも英語の絵本を手放さなかったというが、さすがにそこまでは無理。通勤電車の中にほぼ限定での「なんちゃって多読」である。

まずは絵本が「つるつる(多読を勧めているSSS(*注1)ではこういう表現をしている)」読めるように、これが第一目標。翻訳者の中には英会話が苦手な人も少なくないが、実はわたしも完全にそのカテゴリーに入る。よって絵本や児童書を「つるつる」読むのがなかなか難しい。恥ずかしながら、ちょっとした語にいちいち「?」とつっかかってしまうというわけ。

ならばGR(Graded Readers)はどうか? オリジナルの作品を学習者向けに平易に書き直してあるGRならば、あっという間に何十冊も「つるつる」読めるかも! と思い、友人や図書館で借りたり、自分で買ったりして二十冊ばかり試してみた。が、GRは正直言ってわたしにはあまり面白くなかった。長い話をはしょってあるため、「何でいきなりこういう展開になるの?」という疑問を持つこともしばしばだ。子どもの頃に読んだ名作のGRは特にその傾向が強く、「ここにこういう面白い話が出てきたはず」という部分が飛ばされていることもしょっちゅうだった。残念な思いをすることも多くて、今では「名作モノ」のGRはパスすることにしてしまった。美味しいところだけのつまみ食いというのは、何事も難しいものなのである……。

学習者向けに書き直したのではない、オリジナルの児童書の場合はそういう「(自分にとって)いいところやストーリーの伏線になるところが飛ばされている」ということがないので、非常に楽しめる。無論、上に書いたように口語表現は苦手で、特に会話部分「?」と思うことも多いのだが、「わからないところは飛ばす」というSSSの法則を守っていってもストーリーが追えなくなったり、筋の展開がいきなり変わってしまうことがないので、全般的にどれを読んでも楽しい。特に『Cobble Street Cousins 』のシリーズを読んでいるときは、脳内は30年以上前の小学生に戻ってしまい、夢中でページを追った。数年ぶりに自宅最寄り駅を乗り過ごしそうになったくらい。

そうそう、本選びには、SSSが出している『英語多読完全ブックガイド [改訂第2版] 』も使ってみた。ガイドのオススメに従って選んだ、小学生のマッド・サイエンティストFranny K. Stainが活躍するシリーズ も好みに合っていた。

意外にも絵本や児童書に手間取った反面、読みやすいのはビジネス書である。日本語版『チーズはどこへ消えた? 』は読んでいなかったが、『Who Moved My Cheese? 』など、非常にラクに「つるつる」読めた。ビジネス書というのは元々わかりやすくロジックも明快に書いてあるものだし、なんといってもビジネス文書を訳すのがわたしの仕事であるから、これがぱぱっと読めないようでは話にならないのである。……しかしそれならば、多読を始めて数ヵ月間、絵本や児童書に苦戦したというのは、「口語に弱い」のが露呈したということにほかならないということだろう。

次に、いろいろな出版社から出ている、対訳やいわゆる「ルビ訳」のシリーズ。これも十数冊読んでみたが、対訳があると意外と面白くない。もちろん翻訳者として「こういう風に訳すのか」という勉強にはなるのだが、楽しみとして読むなら、対訳や解説はむしろ要らないと思う。SSSの三原則「辞書は引かない、つまらないところは飛ばして前へ進む、つまらなくなったら止める」とは言いえて妙であり、ともかく「面白いと思ったらわかるところだけつなげてどんどん読む」のが継続のコツなのだと納得。勉強しているわけじゃないのだからすべての語句の意味がわからなくてもいい、解説は飛ばしていい、そのスタンスじゃないと確かに「つるつる」読めないだけじゃなく、面白くないのだ。

そしていま、わたしが読んでいるのは『Mary Poppins Comes Back 』。「メアリー・ポピンズ」シリーズの2冊目である。メアリー・ポピンズは昔、自分が非常にハマったシリーズで、シリーズ最後の『公園のメアリー・ポピンズ』は図書館に自分が初リクエストした本でもある。そんなこともあって、思い入れも非常に深い。1冊目の『Mary Poppins(邦題:風に乗ってきたメアリー・ポピンズ)』を読んでいるとき、あまりの懐かしさに、電車の中で「そうそう、こういうエピソード、あったよね……」とうなずいてしまっていた。30年以上前の自分を追体験しながら読めるので、なんたって楽しい。今はその続編、邦題『帰ってきたメアリー・ポピンズ』を読んでいるところだ。だが、あんまり「つるつる」読んではもったいないと、ペースを落としてゆっくり味わっている。30年以上の月日を挟んで、一粒で二度美味しい(余談だが、子どもの頃わたしはあの「アーモンドグリコ」キャラメルが何よりも好きだった)。それは昔の自分のおかげなんだなぁ、と、いまとまったく同じ髪型、身長でありながら体重は10kgほどマイナスであった、小学生当時の自分に感謝してみたりした。

そんなこんなで、「語数稼ぎ」でさーーーっと流し読みしてペースを上げたり、ゆっくり味わってペースを落としたりしつつ、なんとか80万語まで来た。当初の目標100万語まで、あと20万語である。さて、メアリー・ポピンズシリーズが終わっちゃったら、次には何を読もう……? ああ、また本屋に行って散財せねば。

注1:SSS英語学習法。同webサイトによると「SSS英語学習法は、『多読(Extensive Reading)』を中心に、リスニングやシャドウイングなども併用して英語を習得する方法」。SSSとはStart with Simple Storiesの略語であり、その名称どおり「絵本から始めて」「100万語単位で」生の英語を浸透させていくため、無理なく楽しく学習できると謳っている。「辞書は引かない、つまらないところは飛ばして前へ進む、つまらなくなったら止める」の三原則を守り、ともかくどんどん読んでいく=語数を稼いでいく、のが大切だとわたしは解釈している。何より挫折しない、楽しいというのがこの方式の最大のメリット。

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都心のパワースポット、新宿御苑はちょうど秋バラの季節。春バラよりも鮮やかな色を持つ、主張のはっきりした秋バラは香りも強く、胸いっぱいに吸い込むと身体の隅々まで甘さが染み込みます。どんな癒しグッズよりも効果満点の秋バラのパワーを目から取り入れてください。左から、メルヘンケニギン(独語で「おとぎ話の女王」)、ゴールドバニー、アラベスク。

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2009年10月13日 (火)

Thinking Outside of the Dome

Americans have never quite embraced the metric system. A sort of feeble effort was made to “go metric” under President Carter, but it never took root. This makes it necessary, at times, for translators to convert Celsius into Fahrenheit, centimeters into inches, etc.

But Japan has its own quirks when it comes to measurement.

Take the Tokyo Dome, for instance. You know, that giant air-conditioned baseball stadium where the Giants play?

Uncle Sam: Never heard of it.

(Here I’ve taken the liberty of introducing an imaginary character named “Uncle Sam,” who is talking to a long-time resident of Japan who we will respectfully dub “Mr. Mike.”)

Mr. Mike: Doesn’t the “Big Egg” ring a bell?

Uncle Sam: The big what!

Mr. Mike: Egg…you know, it sort of looks like an egg.

Uncle Sam: What does?

Mr. Mike: The Toky…oh, nevermind.

OK, perhaps you get the point: No one outside of Japan—apart from die-hard Central League baseball fans—has ever heard of the Tokyo Dome. A sports fan might assume it is a sterile concrete monstrosity built for sporting events; but, who knows, an astrologist might picture it as a giant planetarium.

None of that confusion would matter much if it weren’t for the fact that people in Japan actually treat the Tokyo Dome as a unit of measure.

Don’t believe me?

Check out Wikipedia (in Japanese) and you’ll find that the Tokyo Dome is blessed with not one, but two pages: as a baseball stadium and as a unit of measure.

Apparently, meters-squared or hectares is just too abstract for some people. They need the numbers to be converted into something more concrete—literally!—like a domed stadium.

If you Google “Tokyo Dome” and “equivalent” you’ll probably come across English sentences like this: “This large natural park covers an area of 304 hectares, a space equivalent to that of 65 Tokyo Domes.”

Personally, I find this additional factoid useful—since I don’t know a hectare from an acre. Now 65 Tokyo Domes—there’s a figure I can wrap my mind around.

Because I not only know what the Tokyo Dome is and seen photos of it, but have also stepped inside to watch a mind-numbingly boring game between the Giants and the Hiroshima Carp.

The problem, though, is that the reader of my translations is not me (= a long-term resident of Japan). Heck, it might be Uncle Sam or some guy who thinks the Tokyo Dome is a Buddhist cathedral (if such a thing exists).

At this point, an enterprising translator might step up to the plate (yes: pun intended):

“No problem, I’ll just convert it some other dome in the US, like the Astrodome or the Superdome.”

Great idea, but with some drawbacks—the most glaring being the fact that Americans (outside of Japan) just don’t think in domes.

In a pinch, Americans might convert enormous figures into “Grand Canyons” or some famous skyscraper. I even had a high school math teacher who converted figures into McDonald’s Quarter Pounders for the benefit of his culinary-challenged students.

But not domes.

Yes, domes are sadly underutilized in the United States as a unit of measure. It’s true. In fact, domed sports stadiums in general, which might have been hip 30 years ago, are now about as popular among Americans as polyester neckties—to name another unfortunate product of the 1970s. For whatever reason, they have reached the conclusion that those multi-purpose domes (built with good taxpayer dollars) are hideous eyesores fit only for a wrecking ball’s target practice.

“Um, so what should we do when we come across Tokyo Domes in a document?” our enterprising (and persistent) translator might ask.

The wrecking-ball approach, I would kindly suggest. Just ignore it, if at all possible.

If someone is hell-bent on putting it into an English sentence, for whatever reason, it would be best to at least add “baseball stadium” after Tokyo Dome for the benefit of Uncle Sam and other “ignoramuses” out there.

Still, I can’t help wondering how many Tokyo Domes-worth of beer all of the Giants fans consume at the Tokyo Dome during a baseball season?

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Baseball Stadium or Unit of Measure: You decide?

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2009年9月24日 (木)

意外と見落とされている、漢字の大切さ

翻訳会社の実施するトライアルには、いろいろな採点基準がある。原文の理解力、専門知識、文書の様式、固有名詞の調査力、そして訳文のライティング。

このうち、訳文のライティング能力というのは「好み」「相性」で左右される側面が、確かにある。それでもやはり私は、初回のこの欄に書いたような、主述関係が整っていて、修飾語が被修飾語にきちんとかかっていて、読点の位置は一番わかりやすいところにあり、一般的に誰でも読める漢字や熟語を使う……ということをどうしても無視できない。

だが、このような「ちょっとしたテクニック」を使うには、ある程度脳内辞書が構築されているのが前提となる。今日は、脳内辞書がなくとも、外付け辞書(!?)ですぐにできる訳文品質アップ方法について書いてみたい。

外付け辞書、つまり普通の辞書である。「誤訳の泉」でも辞書を引こうよ云々と書いているので「またこの話?」と思うかもしれないが、辞書や資料を小まめに引くだけで翻訳の品質がワンランクアップするのは疑いない事実。実力ある翻訳者の方ならば、賛成していただけると思う。

辞書類の話はいろいろあるが、日本語の基本の基本、自身で持っている日本語感覚は関係なし、ということで、ここは「漢字」に絞った話をしてみよう。

いまこれを読んでくださっている方、「例えば」を漢字で書きますか? 「たとえば」とひらがなにしますか? そしてその理由は? 人によって、そして翻訳会社によっても基準はさまざまだと思うが、私は漢字にしている。理由は「常用漢字を使う」という、自分の基準があるから。

常用漢字かどうか自信がないときには、オンラインでもすぐに調べられる。辞書を購入する必要もなければ、画面から目を離す必要すらない。「常用漢字表」で検索すれば、すぐに文化庁のページや、もっと便利に分類してあるページにも飛べる。

さらに、新聞各社やエディタースクール等から出ている『用字用語辞典』や『記者ハンドブック』『表記ルールブック』等を1冊でいいから手元に置いておけば鬼に金棒。常用漢字表と、こういう用字用語辞典の両方を当たれば自信を持って漢字を使える。もちろん、普通の国語辞典も便利だ。「あれ?」と思った送りがなもすぐに解決できる。そう、意外と送りがなの間違いって多いのですよ。

こうやって、ちょっと注意して漢字を的確に使うだけでも、翻訳の品質は高まる。少なくとも、トライアルでの減点が少なくなる。いや、こんな偉そうなことを書いている私だが、以前JTFのセミナーに参加したとき、「硬い」「堅い」「固い」の使い分けができていなかった。いや、それ以前に自分の中での語の解釈がまったく間違っていたことが判明し、真っ青になった経験がある。「合っていると確信できる語も辞書を引こう」と、そのときに初めて心の底から思った。恥をかくと人間は成長するけれど、恥をかかなくても成長すればもっと良いわけだし!

もうひとつ、同音異義語がある。それも、きちんとわかっているのだけれども、変換ミスで間違えてしまう字。特にパソコンで原稿を打つようになってから、「衛生」と「衛星」など、ついうっかりしてしまうことも増えたと思う。こういうちょっとしたミスは、脳内辞書+外付け辞書では防げないこともある。ひらがなから漢字に変換するとき、パソコンの日本語システムが勝手に学習してくれた通り、すなわちここ最近で一番多かった漢字に変換されてしまうから。それを「あっ、こっちじゃない」と瞬間で変えられるときはいいけれど、ちょっと注意力が散漫になっていたりして変換ミスのまま……ってこと、実は私自身にも非常によくあること。

こういう「ケアレスミス(だが漢字の誤変換というのはケアレスの中でもかなり目立つミスである)」の解消法は、ひとつには見直し。訳文を作成したそのときじゃなく、ちょっと休憩してから、できれば翌日くらいに見直すと発見が容易である(経験者は語る)。しかし納期が迫っていたりして、「ちょっと休憩してから訳文見直し」なんてできない、翻訳が終了してから30分で納品時間……ということだってある。というかこちらのケースがやっぱり多い。

そんなときは、古典的な方法だが、訳文をプリントして読み直す。パソコンの画面は速読には向いているが、ちょっとしたケアレスミスを発見するには、やはり紙にかなわない。これは私だけじゃなく、友人の翻訳者も言っていた。「納品前には必ず紙にプリントしてそれを読み直し、最低限、誤字・脱字や変換ミスだけは直す」と。翻訳って、ただひたすら勉強して脳内にいろいろなことを入れるだけが品質アップの道じゃない。小まめに辞書を引いたり、「納品前チェック」の地道な積み重ねが、翻訳者の品質を作っていくのである。

  

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廃校になった小学校の跡地を使っている「四谷ひろば」にて。敷地内におもちゃ美術館や地域ひろばを設営し、アートギャラリー等の展示や盆踊りなどのイベントを実施している。色水が十数本、こんな風に柵内に吊るされていたが、何かの作品の作りかけであろうか。ビニール袋に入ったとりどりのクリアカラーが、さんさんと降り注ぐ日光を受けてプリズムのように輝き、通行人を楽しませてくれる。

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